おはようございます。稲垣陽子です。
今日はお盆休暇で帰省されたり、旅行中の方も多いのでしょうか?
さて、旅行といえば、私は昔から神社仏閣巡りが大好きです。
かと言って、何か特定の宗教を信じているわけではありません。
お寺に行けば宗派に合わせて「南無阿弥陀仏」か「南無妙法蓮華経」を唱え、
教会に行けば「アーメン」と言い、神社に行けば「祓いたまえ、清めたまえ」と
都合よく手を合わせます。
以前、ある神社に行って、手を合わせようとしたら、
参拝の仕方として注意書きが書いてありました。そこには、
「祓いたまえ、清めたまえ、六根清浄
守りたまえ、幸(さきは)へたまえ、●●神社」
と唱えるようにと書いてありました。
正直、それを読んで軽く衝撃を受けました。
そうか、守ってください、幸せにしてくださいと
自分の未来を神様に委ねていいんだと思ったのです。
私はそれまで、前半の「祓いたまえ、清めたまえ」しか知りませんでした。
なので、無意識に手を合わせるときは、
ダメな自分、間違っている自分がいました。
「すみません。どうぞこれから努力しますので
穢らわしい自分を清めてください」と、
懺悔するような気持ちで祈っていたのでした。
その前提には、
・私はまだ足りないからもっと努力しなければならない
・私は人に迷惑をかけているからもっと注意深くならなければいけない
と、自分を捉えていました。
そして、これができたら私は守られたり、
幸せになる権利が手に入る、そんなふうに思っていました。
逆にいうと、自分が足りなく注意散漫な間は、
幸せになる権利も誰かに守ってもらう権利も自分にはない、
無自覚ですがそんなふうに思っていたのです。
つまり、幸せとは完璧な自分になった時に手にすることができる
ご褒美のようなもので、自分から掴みにいくもの、
そんなふうに思っていたのでした。
でも、そうではないんですね。
幸せはご褒美ではありません。
以前、本のタイトルを忘れてしまいましたが、
読んだ本の中に「神様はケチではない」と書かれていました。
何かをしたから、何かをしてあげるというギブアンドテイクではないんだ、と。
望めば与えるギブのみの世界なんだと。
ただ、自分が欲しい形で与えられるわけではないので、
分かりづらいみたいなことが書いてありました。
幸せとは何かを手にしたご褒美にもらえるものではなく、
今、この段階ですら、求めればそこにあるものなのです。
幸せはつかもうとすればするほど、遠くなるのかもしれません。
今週は、幸せにしてくださいとよろずの神に、
ご先祖様に、委ねてみましょう。
そして、もう十分に与えられている、
幸せの中にいると信頼してみてください。
そうすると、雨模様の中に束の間の太陽を見るだけで
幸せを実感することができるでしょう。
その実感があなたに力をくれ、
新しい行動や努力をするエネルギーになるのです。
どうぞ今週も素敵な1日になりますように。
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