おはようございます。稲垣陽子です。
先週末のランチのことです。
家族で中華料理を食べに行きました。そこで息子が坦々麺を注文しました。
すると、お箸とレンゲ意外に、銀色の穴あけスプーンがついてきたのです。形は普通のスプーンなのですが、すくう部分に穴が10数個空いています。
それを見た息子が「これ、何に使うの?」と聞いてきました。スープを飲もうとしても穴が空いているのですくえません。
そこで私は「野菜を食べるために使うのよ」と、さも知っているかのように答えました。きっとそうだろうと思ったからです。
すると息子が「野菜くらい箸で食べれるんですけど・・」と呆れたように私に言います。
確かに・・息子の言う通り!
すると主人が「スープに沈んだひき肉を食べる時に使うんじゃない?」と助け舟を出してくれ、一件落着。確かにひき肉を食べる時に便利そうです。
実は、私、お恥ずかしながら、上記のようなコミュニケーションをとることが、たまにあります。誰かに尋ねられたり、自分とは違う意見を聞いた時に、フッと閃いたことを自分の思い込みで答える。
しかも質が悪いのは、自分の考えが正しいかのように(さも知っているかのように)話してしまうこと!!
自己嫌悪とともに、なんでそうなってしまうのかしら・・と、振り返ってみました。
すると、私は「分からない」「できない」が、言えないんだ、ということに気づいたのです。
この時も、なぜ穴あけスプーンが付いてきたのか分かりませんでした。だから、「なんだろうね・・分からないよ」と言えばよかったのです。
でも、その時私の頭の中には「分からない」という言葉を言う選択肢はありませんでした。
それよりもスプーンがあるということはきっと食べやすいのだろう、食べやすいとすれば、それは野菜だろう、という勝手な私の解釈が働き、結果、「野菜を食べるため(にあるはずだ)」とさも知っているかのように伝えてしまったのでした。
しかもそれが正しいと信じて言葉にしていたのです!私の単なる思い込みに過ぎないのに。
今週は私のちょっと恥ずかしい体験をお伝えさせていただきました。
皆さんはどうでしょうか。
「できない」「知らない」「分からない」を素直に伝えることができていますか?
私ほどではないとしても、実は結構多くの人が、伝えられずにいるのではないでしょうか。
なぜなら、私たちの多くは、自分が何ができて、できないのか、何を知っていて、知らないのか、何が分かっていて、分からないのか、が、あまりよく分かっていないのではと思うからです。
事実と解釈が混在しているのです。
例えば、上司から「この仕事できる?」と初めての仕事を任されたとします。
部下としては、やったことがないけれど、上司からの頼まれごとは断ってはいけないのではと思ったり、以前似たような仕事をやったことがあるので、できるだろうと思い「できます!」と言います。
でも実際に手をつけてみたらすごく大変だった、結果、予定の期日に間に合わなかったなんてことがあります。
もし自分の「できる」「できない」に忠実であれば、
「今までやったことがないので、できるかどうか分かりませんが、以前似たような仕事をしたことがあるので、やってみます」
という言葉を選ぶと思います。
その方が、双方ともに状況が分かりますよね。
特にポジティブな人や、リーダーなど頑張ることができる人ほど、自分の中にある「できない」を認めることは難しくなります。
「できない」と認めるよりも、「できるとしたら」「わかるとしたら」という視点で、自分の周りや人間関係を見てしまう傾向があります。
でも、全てが分かる人などいません。
自分もできないことがある、わからないことがあるという前提で周りや人間関係を見ると、例えば、先の私の例なら、息子の質問に対して
「さぁ、なんだろうね。よく分からないけど、野菜を食べるためにあるんじゃないかな?」
というコミュニケーションになり、それは、もっと気楽で、本音で、双方ともに等しくなるコミュニケーションになると思うのです。
今週はぜひ、自分が何を知っていて、何を知らないのか、それを意識して過ごしてみてください。
知らないからこそ、親密なコミュニケーションがスタートするかもしれません。
あるいは思った以上に知っていることがあると思うかもしれません。
では、今週も素敵な1週間をお過ごしくださいね。
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