おはようございます。稲垣陽子です。
GWの最終日ですね。いかがお過ごしでしょうか?
私はGW中に、岐阜県八百津町にある「杉原千畝記念館」に行ってきました。
杉原千畝さんは第二次世界大戦中に
リトアニアの日本領事館で勤務していた日本の外交官で、
ナチスの迫害から逃れようとする数千人のユダヤ人に対して
日本の外務省の命令に反いてビザを発行し、
彼らが日本を経由して安全な地域へ逃れることを支援した方です。
このビザは「命のビザ」と言われています。
このビザを出そうかどうか悩んだ時の彼の思い(下記文章)が
記念館の入り口に書いてありました。
「私も、何をかくそう、回訓を受けた日、
一晩中考へた……(中略)苦慮、煩悶(はんもん)の揚句(あげく)、
私はついに人道、博愛精神第一という結論を得た」
外務省からはビザは出すなと言われている。
それに背けば失職するかもしれない。
戦時下の日本で自分や家族の命も危険にさらされるかもしれない。
その煩悶の中で、自分が正しいと思うことをする決断した勇気に
私は心を打たれました。
ただ、私には解せないこともありました。
千畝さんがビザを発行したからと言って、
その後、ユダヤ人はシベリアを渡って、ウラジオストク、そして敦賀、
さらに亡命国へと移動しなければなりません。
数千人の移動となるとそう簡単ではないはず。
それでも実現できたのはなぜなんだろう?そこには何があったのか。
疑問に思った私はできる範囲で文献を調べてみました。
すると、千畝さんがビザを発給した後でシベリア鉄道に乗れるように工面した人、
ウラジオストクで全員が日本上陸できるように外務大臣にまで打電した人、
日本滞在中のビザの延期に東京、神戸と奔走した人、などなど、
命のバトンをつないだ人がいたことがわかりました。
どこか一つでも途切れてしまえば、あるいは諦めてしまえば、
そこで数千人の命は途絶えてしまったのではと思います。
しかし、ここでさらに疑問が。
一体これらは誰が指揮をしたのでしょうか?
通信環境が整っている現代ならいざ知らず、時は1940年の戦時下です。
遠い海外で何が起こっているのか、詳細に連絡することは難しいでしょう。
また、千畝さん自身がリーダーシップを持ってその後もずっとこれを指揮し、
根回しをし続けた訳でもなさそうです。
一体、人々を動かしたのはなんだったのでしょうか?
ここからは、私の推測でしかありませんが、
誰かの勇気は伝播するんだと思います。
誰かが勇気を持って決断し事を起こした時、
それが私利私欲ではなく、純粋で正直な動機であれば、
その勇気は時空を超えて伝播する、ということです。
京セラの稲盛和夫さんも何かを成し遂げようとする時
「動機善なりや、私心なかりしか」と言っています。
でも、そのスタートはいつも深い孤独から始まります。
世の中の全てが敵に回るような恐れ、
自分は及びではないと言う羞恥心、
何かを捨てるような不安や痛みも感じるかもしれません。
千畝さんも「苦慮、煩悶(はんもん)」と言っています。
しかし、その苦しみを通って出てきた決断と行動は、
目には見えない勇気となって、誰かに伝播します。
そして必ず応援の風が生まれるのです。
つまり、決断の時は孤独でも、
その勇気の後に必ず人はついてくるということです。
ついてこなかったらそれは私心だったというだけのこと。
あなたにとって苦悶するくらい勇気がいることはどんな事ですか?
では、今週もどうぞ素敵な1週間をお過ごしください。
参考文献・資料など
1、杉原千畝記念館
2、6千人の命を救った男 杉原千畝とその時代「日本のシンドラー」
3、戦場の外交官 杉原千畝 PHP文庫
4、シンドラーのリスト(映画)
5、第一次世界大戦後における日本外交と在外公館 和田華子 紀要論文
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